まるでパンを食らうように

在宅ジャニオタ男子。ドドドドド新規。

続・1997年生まれの男子高校生が光GENJI佐藤敦啓というアイドルを知った話

ジャニーズアイドルとしての歴史だけなら長野博さんと同じくらい長いのになんでこんなに情報がないんだと不思議だったんですけど、本気で調べ始めてやっとわかった。グループに所属していた全盛期がまだインターネットの発達していない時代だから、当時の記録が残っていないんだ。ネットがない。つまりファンが、というか一般人が発信する機会がない。そして当時のファンが今さら録画や雑誌の感想を書き残す訳もなく、動画サイトにもほとんど映像がない。新規にファンを獲得する場もないから、記録も記憶もどんどん消えていってしまう。十数年前までインターネットが存在しなかったというのは知識としては知っていましたが、佐藤アツヒロを知ろうとして初めて実感しました。
前回は佐藤アツヒロがヤバいことに気づいたという興奮を書き殴っただけだったので、今回は自分用に光GENJI時代を中心に佐藤アツヒロのこれまでを自分なりに噛み砕いてみたいと思います。例によってまったく有益な情報はない。クソ長い。










佐藤敦啓さんは1973年8月30日京都府の生まれ。去年の誕生日で40歳になりました。
これをジャニオタ的にわかりやすく言い換えると、SMAP稲垣吾郎さんと同学年。伝説の最高齢ジャニーズジュニアこと佐野瑞樹さんとも同学年。あれ、わかりやすくするつもりがこの3人を並べたら余計わかりにくいな……吾郎ちゃんと同い年ってことだけ覚えておいてください。
ということは、SMAP木村拓哉さん中居正広さん、TOKIO城島茂さん山口達也さん、V6の坂本昌行さん長野博さんよりも年下になります。嵐の松本潤さん(1983年生まれ)とは誕生日が一緒で、ちょうど10歳違い。松潤が生まれた日にアツヒロくんは10歳の誕生日祝いをされていたと思うとなんだかほっこりしますね。松潤より10歳上はバラバラなアイドル人生を歩んできたアツヒロ吾郎ちゃん佐野瑞樹世代、松潤より10歳下は華やかなエース揃いの山田涼介ラブホリ優馬世代(1993年生まれ)です。
ジャニーズのクレジットは基本的にデビューした順なので、公式サイトで今のアツヒロくんは近藤真彦さん・少年隊・内海光司さん(元光GENJI)の次に載っています。なんだかすっごい昔の人みたいですが、現役でアイドル界の第一線にいる松潤と10歳しか変わらないって考えると、思ってたより意外と若くないですか?俺と同じように光GENJIを知らない世代、SMAP以降の作ってきたジャニーズしか知らない世代からするとこれはけっこう違和感のあることです。SMAPTOKIO・V6より若いのに、なんでこの人はご隠居さん扱いなんだ?


ジャニーズ事務所への入所は1986年のアツヒロくん13歳の誕生日。なんとオーディションなしの特待生だったそうです。
ジャニーズのオーディション免除組といえば、東山紀之さんやKinKi Kidsの二人やタッキー、先ほども名前の出た松潤なんかもオーディションがなかったそうですが、ちょっと名前を並べただけでもじじさまのオキニ揃い。当時のジャニーズは積極的に男の子がなりたいものではなかったようなのでスカウトのような形も多かったのかもしれませんが、デビューが早かったことも考えるとアツヒロくんはわりとエリートだったのではないでしょうか。若い頃のアツヒロくんってすげえじじさまの好きそうな顔してるもんな……。


1987年8月19日、アツヒロくんは入所から1年足らずで光GENJIの最年少メンバーとしてレコードデビューを果たします。デビュー曲はCHAGE&ASKAの手掛けた『STAR LIGHT』(48.9万枚)。時代はバブル景気(1986/12~1991/2)の真っ只中。芸能界も今以上に華やかな世界だったようです。アツヒロくん、中学2年の夏のことです。
デビュー当時の光GENJIメンバーは、最年少が中学2年の赤坂晃さんと佐藤敦啓さん、次に高校1年の山本淳一さん、高校2年の諸星和己さんと佐藤寛之さん、高校3年の大沢樹生さん、大沢さんより2歳上で20歳になる学年のリーダー内海光司さん。最年長と最年少には6歳の差があります。今ならSexy Zoneがこのくらいの年齢ですね。年上の内海さん大沢さんが「光」、下の5人が「GENJI」という2つのグループにも分かれていました。この形式は後のトニセン・カミセン、Hey!Say!BEST・Hey!Say!7などに引き継がれ、また、メンバーの色分けも光GENJIが始まりです。今に繋がるジャニーズのグループアイドルの基本はだいたい光GENJIでできてます。
光GENJIは、後期に2人のメンバーの脱退も経て、デビューから8年間の活動の後に解散することになるのですが、その期間はアツヒロくんにとっては13歳~22歳までの、子供が大人に変わっていく最も大切な人格形成に影響の大きい時期でもありました。ジャニーズ史上最高瞬間風速を誇る(中居正広さん談)光GENJIの末っ子として思春期から青年期を過ごした男・それが佐藤敦啓だったのです。
ここで注目したいのがアツヒロくんの生まれ年とデビュー年です。1973年生まれのアツヒロくんより10歳年下で1993年生まれのHey!Say!JUMP山田涼介さん中島裕翔さん知念侑李さんは、光GENJIのデビューからちょうど20年後の2007年にCDデビューしました。ジャニーズに入った時の年齢は違いますが、デビューからの年数と当時の学年だけならアツヒロくんと20年後の世界を生きている3人を重ねて見ることもできるかもしれません。


88年3月には光GENJI最大のヒット曲『パラダイス銀河』(88.9万枚)が発売されます。「ようこそここへ/遊ぼうよパラダイス」という歌い出しから始まる明るくキラキラしたアイドルソング。作詞作曲は最近話題になってしまっているCHAGE&ASKA飛鳥涼が手掛けているのですが、もう意味がわからない。Wildが地球の裏側でMildになるくらい意味がわからない。「胸のりんごむいて」そもそも胸のりんごって何?「大人は見えない/しゃかりきコロンブスコロンブスは比喩だとしてもしゃかりき…?で、しゃかりきコロンブスは大人には見えないの?「夢の島まではさがせない」どうやらしゃかりきコロンブス光GENJIはピーターパンのようですね。「スーツケースの中に/愛の言葉を掛けて/入れて行こう」パラダイスにはスーツケースを持っていくそうです。「風がぬけるシーツは騒ぎ出す」お前さっきまで風船片手に空に飛び立とうとしてなかったか?シーツどこから出てきた?「シルクロードに響く/笛の音色をまねて風を切る」コロンブスの次はシルクロード!この固有名詞のチョイス何?結局パラダイス銀河ネバーランドでOK???ええ、このようにだいたい言いたいことはわかるけど結局意味がわからない歌詞の、まるでセクシーゾーンのような突き抜けたトンチキさで甲子園の入場行進曲にも選ばれています。チャゲアスがこんなの書いてたと思ってなかったよ。あ、『パラダイス銀河』はTOKIOが2004年のカバーアルバム「TOK10」でカバーしてるんで、TOKIO版もおすすめです。やっぱり曲に罪はないからな。あのアルバムは『100%...SOかもね!』(しぶガキ隊)が原曲とかなり印象の違うアレンジでいい。


光GENJIの人気が高かった期間はちょうどアツヒロくんの中学校卒業あたりまでなのですが、何せ1980年代の話。義務教育中の歌手が大人気になったことで、問題が起きました。労働基準法です。中学生以下の労働は夜8時~早朝5時まで禁止されています。労働基準法の児童就労規制によって、生放送が多かった当時の歌番組に中学生のアツヒロさんと赤坂さんが出演できないという状態は、『Diamondハリケーン』まで続きました。ちなみに、二人の代役にはSMAP中居さん木村さんが選ばれていたそうです。当時を振り替えって、アツヒロくんは「光GENJI全集 少年」の中でこう振り替えっています。

その記念の曲『Diamondハリケーン』には、ツラーい思い出もある。
この曲で“夜ヒット”に出演するはずだったのに、労働基準法ってゆーのがあって、14歳のボクと晃は、夜8時以降のテレビに出られなくなったの。
家で光GENJIが出演してる“夜ヒット”を見てるのヤだったよー。“ボクも出たいー”と思いながら見てた。ボクと晃のかわりに、SMAPの中居と木村が助っ人してくれたよ。それで、ホントはGENJIの衣装が背中にアメリカ国旗のついたGジャンで、光の衣装が白いGジャンのハズだったのに、光GENJISMAPを区別するために、光GENJIの5人が白いGジャン着て…。出られなくなったのは、“パラ銀”の途中からだったな。それで、“ベストテン”とかは、VTRで出演してたんだ。
それでこの年のボクの誕生日から、光GENJIは特例でテレビに出てもいいってことになって出演できるようになったんだ。でも、11時までやってる番組を、10時に帰らなきゃならなかった。ボクらだけ「お先に失礼します」って、つまんなかったなー。

当時はアツヒロくん本人だけでなくファンにとっても大問題だったらしく、送られてきたたくさんのファンレターにアツヒロくんは返事を書きました。500枚(本人が言ってるから正確な数字かはわかりません)、サインをして日付と干支のハンコを押して返事を書いたアツヒロくん。

とはいうものの問題になる以前は夜8時以降に出演しちゃったのは事実なので、ここで国が動きます。事務所に調査が入って、国会でも議論になります。結果、次の要件を全て満たす場合は、 その者は労働基準法上に定める労働者ではない、との通達が出ました。

1 当人の提供する歌唱、演技等が基本的に他人によって代替できず、 芸術性、人気等当人の個性が重要な要素となっていること。
2 当人に対する報酬は、稼働時間に応じて定められるものではないこと。
3 リハーサル、出演時間等スケジュールの関係から時間が制約されることはあっても プロダクション等との関係では時間的に拘束されることはないこと。
4 契約形態が雇用契約ではないこと。

歌やダンスなどで一般に認知されている若手人気アイドルは労働基準法の適用外になるため、就業時間の制限を受けなくなりたした。要するに人気がある芸能人は8時以降も出てもいいよって話。「芸能タレント通達」、通称・光GENJI通達です。ということでアイドルの規制はなくなったものの子役や子供のタレントには適用されないってことで、これは十数年後にまたモー娘。特区とか言って盛り上がる話なんですけど、今回は関係ないんで置いておきます。


当時の光GENJIの熱狂のおかしさがよすわかるのがアルバムの発売枚数です。今、ジャニーズでアルバム発売のサイクルは嵐のような多いところでだいたい年1枚。少ないところだと5年に1枚くらいのところもある。それを前提としてのこれです。

1 「光GENJI」1988/1/21
2 「Hi!」1988/7/28
3 「Hey! Say!」 1989/2/20
4 「Hello…I Love You」1989/1/31
5 「ふりかえっ て… Tomorrow」1990/1/31
6 「Cool Summer」1990/7/25
7 「White Dreaming with 光 GENJI」1990/11/21
8 「(333) Thank You」1991/3/20
9 「ひと夏ひと夜」1991/7/7
10 「VICTORY」1991/10/2
11 「BEST FRIENDS」1992/3/4
12 「Pocket Album〜7 つの星」1992/7/1
13 「DREAM PASSPORT」1992/12/3
14 「SPEEDY AGE」1993/3/3
15 「WELCOME」1993/9/15
16 「宇宙遊詠」1993/12/8
17 「HEART'N HEARTS」1994/3/2
※初回版・通常版の2形態で発売
18 「FOREVER YOURS」1994/7/21
19 「SUPER BEST TRY to REMEMBER」1994/8/2
20 「See You Again」1995/8/19

年間3枚もアルバム出されたらさすがにジャニオタやってらんねえだろうが!本気でオタはATMだと思ってるんだなこの事務所は!知ってたけど!
まったく、小中学生がファン層の中心だったという光GENJIでどうやってこれだけ売っていたのか気になるところです。まあバブル期の話なんで金銭感覚も今とは違ったのかな~ってことで納得してみたんですけど、そのへん詳しく覚えてる方がいれば教えてください。
アホみたいに出してるアルバムなんで中古でもコンプリートは難しいんですけど、ファーストアルバム「光GENJI」はジャニーズのファーストアルバムの中でも屈指の名盤だと思うから見つかったら聴いてほしい。ちなみにこのアルバム、CHAGE&ASKA全曲書き下ろしのスタジオアルバムです。すげーカッコいいアルバムなんだけどタイミング的にチャゲアスの名前出すとやっぱり変な感じになるよな…(笑)
ちなみに、Hey!Say!JUMPの平成→Hey!Say!というダジャレはここで初登場です。社長の謎のこだわり。


1989年、光GENJIの人気絶頂期にアツヒロさんは堀越高校に入学します。堀越時代の同級生は稲垣吾郎さん(SMAP)、赤坂晃さん(元光GENJI)、夏川りみさん、深津絵里さんなど。特に吾郎ちゃんとは仲が良く、「ゴロー」「アッくん」と呼びあう仲だったとか。ていうか夏川りみ深津絵里がタメなのみんな知ってた??俺は知らなかったよ??夏川りみってまだ40歳なんだ??
光GENJI人気の急落がどのあたりだったのか、というのは当時を知らないので数字の上でしか判断できないのですが、1989/7の『太陽がいっぱい』(69.3万枚)から1990/2の『荒野のメガロポリス』(26.4万枚)で売り上げがかなり急降下しています。『荒野のメガロポリス』は曲がまあぶっちゃけ売れねえだろうなって感じなんで単純に人気が落ちて売り上げも落ちたってわけではないんでしょうけど、いきなり半分以下っていうのはちょっとヤバいよな。たった半年で何があったのかと調べたのですが、特にスキャンダルもなく単に80年代のアイドルブームが終わる時だっただけのようです。
1992年、アツヒロさんは堀越高校を卒業し、社会人アイドルとなります。アツヒロさんが高校を卒業する1年ほど前から、光GENJIはシングルランキングで1位を取れなくなっています。この頃、世の中でも大きな変化がありました。5年ほど続いていた景気循環の大きな拡張が急速に後退していったのです。バブル景気の崩壊です。
最後のスーパーアイドルと言われる光GENJIなのに、終わりに向かっていく姿があまりにも潔くないカッコ悪いのが切ない。それはバブル景気という浮かれた時代に見初められ、そしてバブル崩壊と同時に見離された光GENJIのあり方だったのかもしれません。デビュー曲『STAR LIGHT』で「夢はFREEDOM FREEDOM シャボンのように」と歌った彼らの終わりが本当に弾け散るシャボン玉のように綺麗だったらいい話なんですけどね。

1994年3月、エース諸星さんが『一匹狼 LONELY WOLF』でソロデビュー。8月にはついに大沢さん佐藤寛之さんの二人が脱退します。5人になった光GENJIはグループ名にSUPER 5と付けてシングル3枚とアルバム1枚をリリース。
光GENJI SUPER 5名義でのセカンドシングル『DON'T MIND 涙』、そのc/w『SHAKING NIGHT』は2012年発売の『忍たま乱太郎 20th アニバーサリーアルバム オープニング&エンディング集』にも収録されています。他にも山本淳一さんソロに大野智さんやタッキー&翼生田斗真さんの参加楽曲があったり、Ya-Ya-yah関ジャニ∞・Hey!Say!JUMP・NYC・Sexy Zoneと世代を越えたジャニーズソングばかりの良盤なので光GENJIに興味なくてもぜひ聴いてほしい!けっこうTSUTAYAに置いてあるからな!

そんな感じで光GENJIが崩壊への道を進んでいくこの時期、ジャニーズには新たなスーパーアイドルが登場していました。1991年デビューのSMAPです。
木村拓哉が1993年に「あすなろ白書」でブレイク、1994年に『Hey Hey おおきに毎度あり』で初のオリコン1位を獲得。光GENJIと入れ替わりに登場したSMAPが結婚しても中年になっても続く卒業しないアイドルになったことを考えると、アツヒロくんがご隠居扱いなのは本当にタイミングなんだろうな~。どっちがいいかは一概には言えませんけど、今年のV6みたいにグループが続いててもいまいち実感のないのを見てると、本人もファンも続けるのって難しいよなとは思う。



5人体制になってからたった1年。1995年9月3日のコンサートで彼らは揃って光GENJIを「卒業」することになりました。事実上の解散です。
デビューから8年という期間がどのくらいの長さかというと今のHey!Say!JUMPが7周年。嵐が『Love so sweet』でブレイクしたのが8年目。木村拓哉が結婚したのが9年目。SMAP以降のアイドルしか知らない身からすると、このくらいならまだまだここから、という気がします。
光GENJI解散後の佐藤敦啓さんは、芸名を変え(佐藤敦啓→アツヒロサトウ→佐藤アツヒロ)ソロ歌手としてデビューし直しますが、そのリリースはシングル2枚とアルバム3枚で止まってしまいます。
そして、光GENJI解散から5年。2000年に、彼は俳優として初舞台を踏むことになりました。佐藤敦啓27歳。アラサーからの再出発です。






その後は外部の舞台に出たりプレゾンに出たりノーボーダーっていう非公式ユニットに参加したりいろいろあるんだけど、長くなったから気が向いたらまた今度。